電通近代化と広電闘争

―全国闘争と職場闘争―

松江 澄

労働運動研究 創刊号 196911月 掲載

 

一 電通近代化の諸段階

 戦争によって打撃を受けた電通事業の再建は、朝鮮特需をテコとして戦前の水準に復活した生産力の急速な発展と飛躍的な近代化にともなう通信体系の整備・再編成として発展した。一九五三年から今日に至る四次にわたる長期計画(五力年計画)はその諸段階を示している。

(1) 第一次五ヵ年計画(一九五三〜一九五七) この時期の特徴は、東京・大阪等ビジネス・センター電話需要の緩和のための電話・電信の強化であり、いわば立ちおくれた電通事業の再建であった。この時期にはすでに電報中継機械化、電話自動改式等一連の技術革新の準備が開始されているが、全体から見ればまだ急速に高まる需要に対応した受動的な性格をもち、一定の目標計画にもとつく事業の椎進は次の長期計画まで待たねばならなかった。

(2) 第二次五力年計画(一九五八〜一九六二)

 この年から目標計画にもとつく一五力年計画が始まり、第二次五力年計画はその第一期計画であった。この時期の特徴は竃信・電話の畏期展望をたて、これとの位置づけにおいて計画を策定することにあり、その後、政府と独占の要請により改訂五力年計画がたてられた。この時期にはLTSの導入、市外回線の超多重化等が行なわれたが、まだ第一次計画の範囲の拡大にとどまって技術的にはその延長の域を出ず、いわば第一次計画の量的拡大の時期であった。

(3) 第三次五力年計画(一九六三〜一九六七)

 この時期になると技術的に初めて新しい質的発展の段階に入り、政府の要藷にもとつく高成長への積極的で能動的な対応が行なわれた。すなわち、主要都市間の自動改式と国際通信網への結びつけが進められるとともに、従来のA型交換機からクロスバー方式に改められ、将来の電子交換機導入の第一歩がふみ出された。またこの時期にはこうした質的発展とともに、小局経営の合理化、事務の近代化等が強行され、着々と次の五力年計画の布石が進められた。

(4)第四次五力年計画(一九六八〜一九七二)

 この時期はいわば質的発展の第二段階といえる。

この時期に入ると、もはや機械による人から人への通信ではなく、機械と機械との通信であり、通信線とコンピューターとの結合によるデータ通信の開始が重要な特徴である。この年次計画は、三兆三七七〇億円の建設資金を投入した産業用電信電話の拡充計画である。

 この時期の諸特徴は次のいくつかの目標計画によって示される。

@ データ通信サービスの発展

A 電子交換機、ボタン電話による新しいサービ

 スの開始(短縮ダイヤル、簡易計算等)

B列車電話、自動車電話、ポケット・ベル、画

 像通信、料金即知サービス

C 全国に散在する各事業所間に各種情報処理可

 能なデータ通信サービスの提供

D 工場、事務所等に電話機を通じて設計図、伝

 票等が送れる記録通信サービス

E 電気、ガス、水道等のメーターを電話線を通

 じて読みとれるテレメーターリング・サービス

◎ 雷話綿を通じてファクシミリ・カタログ等を

 家庭に送りながら電話で即売活動のできるサー

 ビス           .

H 在宅のまま取引き銀行の口座から代金の支払

 いが自動的に行なえる電詣サービス

H 加入テレビ・サービスを提供し、学校の講護、

 講座、文化財などが居ながらにして見聞できる

 サービス

I 医療用画像通信サービスで脳波や心電図など

 を送り遠隔診断ができるサービス

等。

 尚、データ通信については最近松下がその開発に成功している等、東芝、松下等独占メーカーが経営にのり出そうとしており、雷通のデータ通信開始の問題とからんで、電波の独占をめぐる争いはようやく激しくなり予断を許さない。

 戦後再建から出発した電通近代化も、データ通信開始に至って通信体系の再編成は新しい段階を迎えた。データ通信の開始によるコミュニケイションの普遍化は、一方ではますます資本の集中と独占の強化をうながすとともに、他方、コミュニケイションそれ自体のもつ普遍性と技術の独占とは本質的に矛盾するものであり、資本主義の発展における技術発展の予盾をいっそうあらわに示しているものといえよう。

 またデータ通信の開始準備など情報産業化しつつある電通では、労働密度のいっそうの強化と新しい質的変化に対応した技術再訓練問題、中高年令層の先行き不安などをもたらすとともに、データ通信の発展による民間事務労働者への圧迫など、巾広.問題を提起している。

 

二、近代化に対応する闘争の諸段階

 戦後電通労働者の闘争も、すでにのべた電通近代化諸段階の各時期に応じた特徴をもっている。

(1) 第一次五ヵ年計画の時期

 この時期、労働者にたいしては、五力年計画に見合う機構改革、定員改定、高年令者の退職勧奨、等が行なわれている。また厚生福利の下請切替え、膨大な臨時作業員の雇庸、小局服務の合理化等一連の合理化が進められている。

 こうした情況の下で強制配置転換反対など労働不安にたいする部分的職場闘争とともに、組合による労働時間、各種休暇、配置転換闇題などを中心にした五大労働協約締結闘争が全国統一闘争としてとりくまれている。しかしこの時期の闘争は、公社計画の受動的な性格に見合った受動的な範囲を出なかった。

(2) 第二次五力年計画の時期

 この時期になると労働者の身に直接はっきり感じる労働条件の悪化、労働負担の増大が顕著にあらわれ、職場闘争が次第に激化した。しかし同時に、組織内における統一闘争の強調が次第に高まり、労働条件向上、首切防止、事前協議制など、合理化進展に伴う「某本的了解事項」が締結された。

 この時期の到達闘争、職場闘争激化の最大の頂点となったのが五九年広電中継機械化闘争であった。この闘争の直後、実害回復とひきかえにいわゆる「四条件」―下部で紛争を起こさないことを前提に協約をめぐるトラブルは協約締結機関(本社=本部)で話し合う。その見返りとして管理運営事項、権限外事項も誠意をもって現場で話し合う(但し団交ではない)―が承認され、事実上職場闘争は圧殺された。

 当局による職場闘争への徹底的な圧迫と期を一にして、組合内ではいわゆる「統一機能論」―合理化にたいしては全国統一闘争でなければ闘えない−が台頭して主流を占め、以後職場闘争は影をひそめ今日に至っている。自立的な職場闘争から統一機能論=上からの統一闘争への転回点を形成しているのが広電闘争であった。

(3) 第三次五力年計画の時期

 この時期には、 「目標による管理」など新しい労務管理方式が填入されるとともに、いわゆる 「六・二五了解事項」による賃金差別が始まり、労働者の疎外感は次第に増大していった。しかし職場闘争は完全に消滅し、闘いは全国統一闘争による部分的労働条件の向上に限定されもっぱら経済闘争に傾斜していった。その後週実質四〇時間制の丸秘協定が結ばれたが、闘争はすべて中央に集中し、全国闘争としてのみ闘かわれ、結果として・は電通近代化補完物となった。

 今日、当局が静も集中しているのはZD運動などによる「心の合埋化」と呼ばれるものであり、それは労働体制としてのシャフト・システム(市外局)等によって補完されている。一方、近代化によって手労働は次第に管理労働に転化し、しかも労働密度はいっそう強化されつつある。 こうした情況の下で、 「統一機能論で闘かえるのか」「按術革新、オートメ化された職場での職場闘争はどんな形態であるべきか」 「労働組合の統一機能と部分的な職場の闘いをどう結合させるのか」「目標による管理など、『心』の合理化とどう闘うのか」等々が、今、新しい職場活動家の最も重大な関心と追求の的となっている。

 われわれはこうした今日的課題を追求するためにも、最も激しい職場闘争として闘かわれ、ある意味では電通闘争の歴史的な転回点ともなった広島電報局闘争の経過をたどるとともに、この闘争に新しい光をあてて見る必要があるだろう。

 

三 広電中継機械化闘争の経週と結果

 いくつかの、電報中継作業を解消して機械化により送受信局を直結する中継機械化計画はすでに第一次五力年計画当時から準備され、全国各局所で遂次具体化されつつあったが、広島竃報局の中継機械化改式は五九年十一月から実施される予定であった。その結果は当時三二〇〜三三○人の定員が二〇〇人に削減され、他は何れも配置転換、職種転換を強制されることが見越されていた。

 闘いは二年前の五七年秋から準備された。まず広電から、すでに改式した神戸、福岡等の電報局へ調査のため幹部活動家が派遣された。 「改式によってどうなるか」 「何が問題なのか」な中心にした綿密な謁査の結果、最も重要なことの一つは訓練問題であり、他の一つは配置転換、職種転換の問題であることが明らかとなった。つまり当局は、事前訓練では中継機械化に必要な最小限の人員で訓練を行ない、ひきつづく配転、職転の準備をすることが最初のネライであった。調査にもとついて長期にわたる討論の中から要求が決定さえた。

 まず何よりも、強制配転、職転(予防闘争の戦術として団結のための全員事前訓練(庶務、配達を含む)の要求、つづいて最も強力な感情的団結の基礎としての強制配転、職転絶対の要求が決定された。さらに労働密度についての細かい作業分析が行われ、標準作業量の設定と標準作業量にもとつく作業要員と労働時間が検討され、要員要求とともに一時間の時間短縮要求が決定された。中でも反合理化闘争の要求としての時短要求についてはとくに慎重な、しかし烈しい討論か行なわれ、反合理化闘争で分会として決定した全国最初の要求となった。

 まず全員訓練の要求は五八年から職場闘争を背景に地方交渉の形で行なわれ、公社はついに全員訓練と、十人単位でおこなう訓練で欠けた職場へは、 一人に対して一・五人の臨時作業員の採用を確約しなければならなかった。

 改式閥争にそなえて職場闘争は次第に強化され、二年前から一年前と次第に激化した。

 当時課長交渉がひんぱんに行なわれたが、これはその後、激化する職場闘争の主要な戦術としての集団交渉の最初の萌芽形態であった。また当時組合はしばしば年休闘争と規制通信を併せ闘っていたが、その時でも、金国的なおくれは平均一〜二時間程度であったのに比べて、 広電は一日近くもおくれを出すほど職場闘争をはげしく闘っていた。改式が近づくにつれて当局はようやくああせり始め、直接広電職制へ圧追を加えはじめたが、職制があせればあせるほど次第に職場は無政府的となり、規制通信は強まり、電報はますますおくれた。

 こうした情況の下で改式予定の三ヵ月前、五九年の八月、要求書が提出された。局長、課長を相手にほとんど連日のように集団交渉が行なわれたが、徹底的な追求の中心は、 「強制配転、職転は一切しないという約束をせよ」という点にあった。

職場は完全にマヒし雷報は二日から三日もおくれはじめ、何も知らぬ職制によるスキャップはかえって通信業務を混乱させるばかりで職制は完全にグロッキーとなり、集団交渉では「自分達は何もできぬ」と泣く始末であった。天井から床下まで徹底したビラ張りで埋まり、続々オルグに来広した他局の活動家の激励演説集会で仕事はいっそうおくれた。こうした勤務時間内の活動もすべて職制に通告承認の下で行なわれたが、職制は拒否することもできず、ただ労働者の云いなりであった。

職制はもはや管理能力を完全に失い、聴場は事実上労働者が占拠した。

 当局は応援管理者の派遺など対策に必至となり、組台本部へは、 「どういう要求を入れたら闘争が止まるか」と要請したが回答は得られなかった。管理者は事実上なくなり、広電と直結した局所での共闘は発展し、さらに全国的にも波及する情勢の下で、追いこまれた公社は、ついに徹底した反撃以外の方法がないことを知った。この時期から、「一部の容共分子による実験闘争」という公社のキャンペーンがはじまった。     

 一〇月、闘争のピーク期をひかえて要求の中で最も最後まで残り、また最も問題となったものは時短問題であった。公社は、「他の要求は何とかするから時短だけは下げてくれ」「全国的に問題になっていない時短を一局所だけで実施することは無理だ」と必至に抵抗した。また職場討議でも、「時短が一局所の闘いでとれるか」 「ここで闘かわなければ時短はどうしてとれるか」と、闘いつつ激しい討議を行ない、討議しつつ激しく闘った。

 一〇月、闘争はピークに達し分会の力は延び切ったが、闘争集約についてさらに激しい討議がかわされた。 一つは、有利な条件で収拾し他日を期すという意見であり、他の一つは、たとえ戦術を多少ダウンしても改式時期にある四国、東北との共闘からさらに全国的規模の闘争を発展させて時短闘争のメドをつけるべきだという意見であった。

この討論の最中にも徹底抗戦の腹を固めた公社は徹底的弾圧にのり出し、まず停職処分を発表した。

 中国地方本部指令による時間内職場大会という形で事実上地方全域にわたるストライキの第二波闘争の中で、分会はついに闘争を収拾した。合理化反対闘争で一地方単独のストライキを闘ったのは、電通闘争の歴史の中で始めての最後であった。

 妥結内容はほぼ次のようなものであった。

@ 配転、職転の範囲を規制したが完全には拒否できなかつた。

A 時短以外の要求はほぼ完全に獲得した。

B 時短については、交代準備時間の名目で、毎

 日なら一日十分(週一時間)、一週間でまとめ

 るなら一日五分(週三〇分)の二案が公社から

 提示され、分会は後者で妥結した。時短はその

 翌年改式局すべてに週一時間が決められ、これ

 はやがて全局所へ適用され今日では週四〇時間

 制をかちとっているが、広電闘争はその輝かし

 い突破口となった。

 闘争が終ると、停職四一名(広電分会が約半数)減給、戒告その他実害を伴う処分九九名、実害を伴わない訓告六七七七名という大量処分が発表された。十二月、中央委員会がひらかれ、激論の後、「時短という高い目標をかかげすぎ、無理をして犠牲だけが多かった」「一部分の激しい闘争だけで全体に拡がらなかった」などの批判を残していわゆる「統一機能論」が勝利し、まもなく前述の公社「四条件」が承認された。

 広電闘争はこうして電通闘争の転回点となった。しかしこれは電通だけのことではなかった。多少の時期こそ違え、国労広島車掌区闘争、新潟闘争、また三井三池闘争など、何れも一局所、 一分会による拠点闘争の最後となったものであり、広電闘争は電通としてのその最後の象徴的な闘争であった。

 朝鮮特需でよみがえった国家独占資本主義はその後の十年聞で戦後発展の基礎をきずいた。彼らはつづいて急速な近代化と生産力の飛躍的な発展を是が非でも実現しなければならなかった。安保を境にした五〇年代の末期から六〇年代の初期へかけての激烈な局所闘争、拠点闘争を圧殺することは、労働者の抵抗を押えてふみ出した六〇年代の高成長の最初の土台でもあったのである。こうして、このような資本の要求にたいして一定の限度内で抵抗しつつ、近代化の刺激的な捕完物となったのが外ならぬ統一機能論であり、口当りのいい全国統一闘争論であった。

 体制への傾斜はこうしてはじまり、以後拠点闘争は消滅して、今、新しい昂揚の時期ー七〇年代を迎えようとしている。

 

四 広電闘争の教訓と今後の課題

 広電闘争から何を学ぶべきか。

 そのためには広電闘争のいくつかの重要な特徴を明らかにする必要がある。

 広電闘争は臼立的な分会闘争として最後まで強固な団結を保って闘われた。この二年間にわたる激しい闘争を支えてきたものは誰であり、何であったのか。まず第一にあげなければならないのは、分会組合員のほとんどが二〇代前半の若い労働者で占められていたという事実であり、闘争の中核もまた青雲寮(独身寮)に結集した二ニー二三歳の若い無党派活動家であったということである。若いエネギーによってこそこの長期で困難な闘争は闘われたのだ。第二に、この闘争を支えてきた中心要求は文字どおり生活実感に根ざした配転、職転反対の要求であり、その基礎の上に積極的な要求としての時短要求がきずかれ、決してその逆ではなかったということである。強固な感情的団結の上に高い要求の統一がきずかれており、それは徹底した討論と闘争を通じて得られたものであった。

  一年近くにもわたる事実上の職場占拠は、意識的というより闘争の発展が必然的にもたらしたものであり、若い労働者達の口からごく自然に出た「二年や三年で替る課長におべっかがつかえるかい い」という言業は、職場と生産の主人公が誰であるかを無言の内に示していた。文字どおり一年近くも労働者は職場の主人公であったのだ。当時も今も同じ職場で闘っている活動家は語っている。

 「広電闘争の再現は決して不可能ではない。しかし生活実感に根ざした闘争力と強固な感惰的団結の墓礎の上に、もう一つ是非とも必要なのは闘争を導く理論であり、闘争を照らす展望であり、闘争を裏付ける確信である」と。

 労働者闘争の基礎は生活実感に根ざした要求と感情であり、これを全く欠いて、埋論的なスジだけでは決して闘争は起こりもしないし発展もしな い。生活実感に根ざした要求と闘争は、本来、労働者が労働者である為の生活と権利を守る防衛的な性格に限定されている。しかし労働者は闘争の中で本能的に、職制なしにやってゆけることを知 った。どんなに激しく強い要求闘争でも、それが 「要求」である限り必然的に防衛的な性格をもつが、一たび労働者だけの力による生産の管理に発展すれば、それがどんなに部分的であろうと、すでにそれは「要求」ではなく労働者が自ら主人公であるという積極的な「意志」に転化している。

この「要求」とこの「意志」はきりはなし難く結びついて発展する。こうして合理化にたいする防衛的な闘争は、闘争を通じて合理化の本質そのものにたいする攻撃的な性格を自ら止掲して生産の主人公となる。

 広電闘争における職場占拠と生産の管理は、要求実現のための闘争戦術を徹底する中で、いわば自然発生的に獲得された。しかし今度は要求闘争を土台に意識的に生産の管理が追求されなければならないだろう。しかも近代化とオートメ化は、それ自体こうした追求の技術的な基盤を提供し準備している。

 電通近代化は必然的に生産力の社会的性格と所有の私的性格との矛盾をますます労働者と利用者の前に事実をとおして明らかにするとともに、管理そのものについての矛盾を深める。すでに近代化の現段階は今までのような生理的、生活的圧迫のみでなく労働者の意識の管理を必要としている。「心の合理化」は労働者を職場と生産の「疑似的主人公」にしたて上げることなしには彼らがやってゆけないことを示している。彼ら自身が管理の問題を日程にのぼさざるを得ないのだ。

 こうして資本による「疑似的な主人公」と労働者による「真の主人公」とは真向から対決する。戦後一貫して追求してきた「労働者が職場の主人公に」という言蘂は、今、近代化が進む中で新しい光をあびて登場しはじめている。

 また「労働者が職場の主人公」という時、それはその職場の生産にたずさわるすべての労働者でなければならないし、生産が一職場で完結しない限りそれはまず同種の生産に参加するすべての労働者に、ついで同産業の全労働者に発展しなければならない。こうして一職場の大衆的戦闘化と同時に、同産業の全国的な拠点形成が必要となる。

そうでなければ一拠点職場だけの「山猫闘争」と労働者管理はやがて管理した労働者ごと資本に管理されてしまうだろう。

 しかし、闘争は決して平均的に発展するものではない。いくつかの拠点闘争が要求と闘争の新しい突破口をきりひらき、やがて部分的な獲得物を普遍化し、さらに新しい拠点闘争がいっそう高い次元の突破口を形成するという形で、質から量へ、さらに量から質へと闘争は発展する。時聞短縮をめぐる広電闘争の経験は事実をもってそれを証明している。一局所の闘争では全国的な要求はかちとれないのではなく、普遍的な性格の要求にもとつく徹底した拠点闘争が全国闘争の端緒をきずくのであり、統一機能論が闘争を発展させるのではなく拠点闘争が統一機能論の内実を形成するのだ。拠点職場を基礎にした下からの、また次第にその範囲を拡大していく全国的闘争の発展を土台にしてはじめて統一機能は生きて作用するのだ。広電の活動家は云っている。 「もし広電闘争の時、全国でたとえ五分会でも同じように強力に闘かえる

楓点があったら、闘争は質的な発展をもたらしたであろう」と。

 新しい第四次五力年計画は、 「心の合理化」を不可欠な前提として着々と準備を進めている。しかし、職場の労働者もますます強くなる人間疎外の中で、 「俺たちこそ職場の主人公」になるために要求をかかげて闘いはじめている。

 広電闘争の今日的な再現と全国的な再現をめざして広電労働者は今日も闘っている。

                             (一九六九・九・二四)

附記

これは当時も今も広島で闘っている電通活動家諸君の協力によって書かれたものである。

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